劇団回想録3「稽古場ジプシーそして、稽古場の確保」
益海愛子


六本木にあった稽古場が、家主の都合で建替えることになり
昭和45年の『若い座標』初演の稽古を最後に
稽古場を求めてのジプシー生活が始まった。

青山一丁目にある木造アパートの二階に事務所を置き
信濃町の旧労音会館、練馬区江古田の庄建設の稽古湯
水道橋に新しく出来た労音会館会議室(現在の神田パンセホール)
等を転々とした。
その頃、青山の事務所の近くに劇団民芸の立派な稽古場があり
いつかは自分たちの城を持ちたいと、強く念じたものである。

今の稽古場に移ったのは、
劇団員それぞれが定住できる場所をと物色していたとき
吉祥寺の前進座近くに
「花柳徳兵衛舞踊学校の稽古揚が空いているので使わないか」
と知人から誘われ、二階の半分(現大稽古場と中稽古場)
を借りることになった。昭和47年のことである。

事務所が青山から移行したのは、
その年の夏の終わりごろだっただろうか。都心から都下へ。
最初はずいぶん田舎に越した様におもったが
閑静な住宅街の中にあり、四季折々の草木や樹木が
稽古場に通う道すがら、心をなごませ癒してくれたものであった。

昭和48年3月
稽古場の持ち主花柳徳兵衛未亡人の他界により
舞踊団、前進座の高瀬氏、そして劇団の三者で
分割購入することになり、資金集めが始まった。
劇団員一人60万円以上を持ち寄ることにしたのだが
貧乏な新劇俳優には、右から左へ「はい」と出せる金額ではなかった。

手に入れる稽古場を、(株)新人会武蔵野芸術センターという名称で
別会社として設立し、株主になる為の出費であった。

60万円用意できる人や、何とか借りることの出来る人
親、兄弟に泣きついた人等
苦労して出資し、設立にこぎつけたが、足りるものではない。
広く一口株主を募ることになり、一口1万円の株主を
知人や観客の皆様にもお願いすることにもなった。

御協カ下さった全国の皆様に、この紙面を借りて
改めて、心から感謝を申し上げます。

昭和48年稽古場の確保により、その年9月
初めて稽古場での勉強会『動員挿話』を上演し
アトリエ公演等のきっかけになった。
自分たちの稽古場で誰に気兼ねすることなく
(近隣への迷惑には心がけながら)昭和49年7月
『炎の人=ゴッホ小伝』の稽古。
若手を多く起用したWキャストで、改装前の俳優座劇場で初演。
秋にシングルキャストで有楽町の読売ホールで再演。
その翌年には、高校巡演と地方公演を交互に公演した。

劇団の高校巡演のきっかけを作り、
その後、作品に恵まれた為もあるが、成功を収めた。

しかし二匹目のどじょうは、そう簡単にはいなかった。

昭和5年、堀田清美作『島』を上演。
翌年からの高校巡演は劇団全員のオルグ(売り込み)体制で臨んだが
予想外のオルグ費出費により
劇団財政に大きな負荷をかけることになった。

しかし、それを救ったのが昭和50年7月
アルブーゾフ作の、若い女医の自立と成長を描いた『ターニャ』や
昭和52年5月
山本周五郎原作で、劇団で初めて石井ふく子先生に演出をお願いした
アウトローを描いた時代劇『深川安楽亭』だ。
この両作品の成功と地方巡演により何とか持ちこたえた。

この間、昭和51年12月
ミュージカル『母をたずねて三干里』
昭和51年7月
ミュージカル『ゆきんこ十二郎』を
それぞれ小・中・高生を対象に上演、巡演した。

昭和55年2月
劇団の中堅だけで、チンギス・アイトマートフ作
『フジヤマ登山』を上演
幸口のセリフ劇で、横井徹の本公演演出のテビュー作でもある。
同年10月、被爆女流詩人を描いた藤川健夫作
『傷だらけの手』を上演。
両作品とも労音会館ホールのみの公演であった。

『フジヤマ登山』のメインキャスト8人のうち
現メンバーは長山藍子、小島敏彦、平林尚三、菅原チネ子
そして筆者と横井徹の6人である。
松熊信義さん、阿部道雄さんはその後退団。
創立メンバーの一人、橋本晴子さんは体調をくずし
退団後の平成2年12月、51歳の若さで帰らぬ人となった。
劇団にも若い力が集まり、そして去りまた集まり
それが組織というものだろう。


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