劇団回想録4「研究生と準劇団員のころ」
石川恵彩


昭和55年2月
当時は劇団に養成所があり、ぼくらは卒業公演の翌日に
プロデュース公演『嵐の中の赤いバラ〜山本宣治〜』の稽古に入った。
戦前の大衆運動で虐殺された「山宣」劇
8劇団が参加し、わが劇団からもスタッフ・キャスト
総勢20数名が連なる、実行委員会形式の公演だった。

いつの間にか公演班に編成され、渋谷の東横劇場の舞台に立った。
ぼくは頭の切り替えが出来ず、演出家に怒鳴られてばかりだった。
役者を兼ねていたが、裏方が主で
毎日のように〈すのこ〉にのぼって仮設レールを吊った。
全国バス移動の87stの苛酷な巡演だった。

昭和56年9月
全国各地で好評の『深川安楽亭』が平河町の砂防会館で再演された。
初演から4年目のことであった。
当時、劇団を支持し後援して下さる「友の会」という集まりがあり
公演に先がけ、8月末の残暑厳しい中
玄関から稽古場を、『古びた居酒屋「安楽亭」』に様変わりさせ
「友の会」の会員の方たちを招いて、再演前夜祭の酒宴を企画した。
僕らは浴衣を着て、お客さまの接待で汗ダクだった。

再演の成功の後、11月は山形の高校合同鑑賞会
師走は中国と九州地方を巡演。
帰京後、これも「友の会」の企画で
劇団の忘年会を東京プリンスホテルにて行った。

昭和58年10月
『深川安楽亭』は東横劇場と前進座劇場で再々演され
11月は文化庁移動芸術祭と公文協事業の公演で、
劇団としてあまり上演していない地域を巡演した。

旅の後半は、6年の風雪のせいか舞台装置の老朽化が目立ち
トラブルが相次いだ。
和欧山の新宮では、終景の「シーン」とした静かな名場面で
大きな壷がのっている棚が「どお-ん」と落ちた。
錆びた金具が破損したのだ。
終演後、控室に大道具スタッフ全員集められ
幹部俳優から大目玉を食らった。

周りを掘割で囲まれ、無頼者の吹き溜まり「安楽亭」
一人娘おみつの望みを叶えるため、危険な抜け荷を決行し
命をぼうにふったアウトローたちの公演は
155st。干秋楽は愛知の岡崎であった。

昭和57年7月
1年の上演延期を経て、周五郎シリーズの第2弾。
橋田寿賀子脚本、石井ふく子演出『初蕾』は
前進座の大ベテラン、いまむらいづみさんの参加をいただき
富山の高岡で初日をむかえた。

開演の数分前まで、緞帳の奥から「トントントン」と金槌の音が響き
手薄の大道具スタッフの呻きが
風の便りで、宮崎を巡演中の『山宣』班にとどいた。
直ぐに数名が、静岡を巡演中の『初蕾』班の助っ人に行った。

東京での初演は11月の東横劇場。
老姑ハマ役のいまむらいづみさん、女中頭お力の菅原チネ子
そしてお民の長山藍子は、石井演出の見事な手綱なさばきで
息もぴったりと絶賛された。

東京公演の大成功のあと、昭和58年8〜9月
北陸と信越地方を巡演。
昭和59年7〜9月
前橋から四国、金沢、富山、中国地方と首都圏を巡演。
昭和60年10〜11月
ハマの役を元新派の大鹿次代さんにバトンタッチして
九州地方と和歌山を巡演。
昭和63年3〜4月
東北地方と首都圏を巡演。
泣いて笑って、笑って泣いて、最後に笑った名舞台は
演劇鑑賞会の主流になっていた主婦層の心をしっかりと掴んだ。

子役の小太郎が羽織袴で登場すると
劇場は「わあー」と、何ともいえない女性客の歓声でわいた。
大詰めの梅林の山で、茶屋女から初蕾のような嫁に成長したお民に
拍手は鳴りやまなかった。

初演以来6年。147st。千秋楽は東京の日野であった。
当時、カーテンコールのあと舞台から
「自分たちの稽古場をもちたい」と客席に挨拶した。
手彫りの版画に絵の具を塗って
みんなで一枚一枚刷って、サインした色紙によるカンパをお願いした。
お陰で、近隣への騒音防止の二重窓がついた大稽古場
小稽古場・中稽古場・天井裏の改装・クーラーの設置
調光室・そしてトイレの増築と
公演毎のカンパで稽古場は生まれ変わっていった。

今でも、旅先で昔ながらの旅館や馴じみの飲食店に
「早春の賦」「ターニャ」「深川安楽亭」「初蕾」の色紙を見かけると
あのころを思い出す。
そして、この作品の地方公演が新しい仲間をつくり
劇団の活動を支え、維持発展させたのだと思う。

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