劇団回想録<五>「劇団員に昇格したころ」
石川恵彩 (2)



昭和59年5月、福田善之作『袴垂れはどこだ』が
六本木の俳優座劇場で初日をむかえた。
若手中心の本公演と銘打ったが、そんなに若手でもなかった。
僕はいつもの大道具スタッフのメンバーだった。
今昔物語に登場する袴垂れ伝説を題材に、飢えに苦しむ村人達が放浪の未、
自分たちのなかに袴垂れを見つけるというものだ。

東京公演のあと出演者全員で、首都圏、長野、静岡、愛知、岐阜とオルグの展開をした。
岐阜の本巣高校では、芝居も上々に滑り出した頃「パッ」と照明が消えた。
容量オーバーだった。
配電盤が見付からず、街の電気屋さんを呼んだころには秋の日はつるべ落し、
体育館は薄暗くなり下校時間も迫った。
仕切りなおしでの、幕開きからの芝居は照れ臭く辛いものがあったが、
生徒たちの観劇態度に励まされ、みんないつもより燃えた。

内山勉さんの舞台装置は、対のやぐらを模して、それが自由自在に
動くもので、8本の太い柱は本物のヒノキ。
上と下にある筏はスギの木の丸太。
やぐらを引枠にのせるときは全員集合。
筏を運ぶ時は4人がかり。
体育館の公演が多く、2階のステージでの搬入搬出はみんな無口になった。
劇中の村人たちの姿は、ぼくらの姿でもあった。

夢と理想を探し求めた旅は3年。103st。
干秋楽は越谷のコミュニテイセンターでの吉川高校であった。
『袴垂れ』班の誕生で、昭和60年10月『初蕾』の九州公演から大道具スタッフを外部にお願いして、
本格的な2班編成のスタートとなった。

昭和59年11月、松山善三作、石井ふく子演出『五代のラブレター』の初演は東横劇場と前進座劇場。
お通夜の場面からはじまる家族の愛のドラマは、
明治・大正・昭和を生きた5世代が同居する家族の危機から、
各々の意外な過去と出生が明らかになり、近代の日本を陰で支えてきた女性の忍従の歴史がみえた。

昭和61年5〜7月、静岡、東海・北陸地方、松本、諏訪、首都圏の巡演で<ラブレター>は途絶え、
借しまれながら幕となった。

昭和62年10月、劇団俳優座との提携公演、ウラジーミール・グーバレフ作、干田是也演出『石棺』は
俳優座劇場で初演。チェルノブイリ原発事故の死の灰の恐怖と、病院内での医師と患者とのやり取りで、
腐敗した体制を告発したタイムリーな企画だった。

『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作、吉原廣脚色・演出)の初演は、
昭和61年9月、渋谷児童会館と、10月の新宿の朝日生命ホール。
里子のギリーが母親に会うため家出し、里親の励ましで自立していく姿を描いた。
都の優秀児童劇で優秀賞を受賞し、追い風にのり、中学校・高校公演。公文教事業公演。
全国のおやこ・子ども劇場を巡演、数年振りに復帰した吉原廣の劇団初演出は、
ロック・ミュージカルに仕上げて青少年たちの瞳を輝かせた。
主役のギリー役に抜擢された新人の水野干夏は水をえた魚のようで新鮮であった。
若手の台頭で稽古場の雰囲気は一変し、劇団に新しい風が吹いた。

昭和62年7月、都の社会教育課事業で新島と大島を巡演。
同年10月、平河町の砂防会館で文化庁優秀舞台芸術奨励公演。
昭和63年11月、山形の高校合同鑑賞会。
平成元年1月、有楽町の読売ホールで都民芸術フエスティバルに参加し、 定時制高校の貸し切り公演。
平成2年9月、浜松の高校演劇教室。
同年10月、涙のファイナル公演は前進座劇場であった。
初演以来4年。422stは劇団のレコードである。

『ガラスの家族』の大ヒットの中、第2次劇団の発足以来18年。
集団の浄化がはじまり、年号も平成に変わったころ徹夜の総会もしたが、劇団は長い冬の季節に入った、
昭和63年4月『初蕾』の干秋楽から、平成7年1月『幸福』の初演まで、
演劇鑑賞会を対象にした作品は残念ながら企画制作できなかった。

ぼくは劇団の門をたたいて7年を経て正劇団員に昇格したが、
旅公演中で親の死に目に会えなかったこともあったし、劇団の盛衰のいろいろもみた。
だが、いつも家族がいて仲間がいて観客がいた。
また、後輩たちの若いエネルギーが刺激になったりもした。
これから、また2班編成の挑戦である。


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