劇団回想録6「劇団朋友が誕生したころ」
石川恵彩 (3)



平成2年5月、劇団内が混迷して5年になろうとしたころ、
中堅から若手のメンバーが中心となって、吉原廣企画による
『帰去来〜赤とんぼぶんと飛んだ〜』(牛島秀彦原作、岡部耕大脚本、吉原廣演出)を推し進めた。
プロ野球の選手で唯ひとり、〈特攻〉に志願し沖縄の空に散った石丸進一の実話である。
出撃前に、最後のキャッチボールをして機上の人となった。
初演は品川キュリアンと前進座劇場。
稽古場の熱気は、そのまま舞台に沸とうした。

この公演で劇団は、2つの集団に分れた。
制作プロジェクトチームの末永明彦のほか、出演者全員で高等学校に宣伝にいった。
松下惇の山形と九州での情熱ある宣伝活動は特筆すべきものであった。
情熱は確実に伝わり、平成3年9月、ねりま演劇を見る会で上演。
平成4年10月、下北沢の本多劇場で再演。 
平成5年11月、山形の高校合同鑑賞会。
平成6年5月、米子市。
同年9〜10月、浜松の高校演劇教室。
平成7年11月、沖縄の具志川と那覇で文化庁優秀舞台奨励公演。
平成8年11月、沖縄市、具志川、名護、那覇と2年連続の沖縄公演。
平成9年6月、鶴岡市。
同年12月、滋賀の水口で高校演劇教室。
平成10年11月、徳之島と奄美大島を巡演し、千秋楽は鹿児島の鶴丸高校であった。
初演以来9年という上演期間も、
350stに迫った高校公演でのステージ数も、劇団のレコードである。

平成になってから、吉原廣脚本・演出の作品が続いた。
『パパあべこべぼく』(メアリー・ロジャース原作、吉原廣脚本・演出)
父親と息子の心が入れかわり、今まで知らなかったお互いの悩みが見えてきた。
初演は平成4年1月、新宿のシアターモリエール。
同年7月、都の教育課事業で利島と新島を巡演。
北海道の名寄から沖縄まで、全国のおやこ・子ども劇場を巡演し、200stをクリアした。
干秋楽は平成10年6月、埼玉の東松山であった。
向井修の「ぼく」役は面白かった。

『私を甦らせて』(吉原廣台本・演出)アメリカのテレビドキュメントを吉原廣が台本化し、
エイズ感染者の再生を追及した。
初演は平成5年12月、池袋の東京芸術劇揚小ホール。

『虹の橋』(澤田ふじ子原作、田島栄脚本、吉原廣演出)貧しくも
健気に生きる若者達の熱き友情を描いた時代劇。
初演は平成7年5月、水道橋のカンダパンセホール。

『チロリンマンの逆襲』(吉原廣作・演出)
不思議な女、チロリンマンがやってきて、家族の虚偽を残酷に暴いていく喜劇。
初演は平成8年2月、新宿のシアターサンモール。

平成6年10月、社名を〈劇団朋友〉と商号変更し、
平成7年1月、『幸福』(向田邦子原作、宮川一郎脚本、石井ふく子演出)をもって新たなる旅立ちをした。
悲しみもあれば涙のあともある、素顔の幸福を求めた愛のドラマ。
客演には榎木孝明さんを迎えた。
美術の妹尾河童さんの大掛かりな装置で、11t車に積んでも減らない大道具の山をみて、ぼくらは茫然自失した。
初演は奈良の橿原、そして、和歌山と首都圏を巡演。
この時は、午前0時頃に水入りをして、鑑賞会からおにぎりとみそ汁をご馳走になり、
2月の寒風のなかロープを絞め終ったのは午前2時をすぎていた。
朋友らしいスタートである。
大阪の阪南、岸和田、貝塚、和歌山の粉河のみなさんにはお世話になった。
同年8月、名古屋、福井を巡演。
9月、首都圏、そして、東京での初演は天王洲のアートスフィア。
平成8年9月、長野、首都圏を巡演。
客演は倉田てつをさん。
平成9年1〜3月、静岡を巡演。
客演はおりも政夫さん。
109stを演り終え幕を下ろした。 

20世紀は、人類は月まで着陸したけど、原爆も落とした。
21世紀は、願わくは自然と人が共生しつづけてほしい。
劇作家チェーホフは100年前に「あるべき生活のために生きていかなければならない」といった。
朋友とは、友達・同志・学芸を同じくする、の意味らしい。
ぼくらは〈FOR YOU〉とすることで、
観客の琴線に触れるような演劇を共に創り、新世紀に相応しいメッセージを送りたい。



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